ワーキングファザーのブログ

親父が思いついた個人的な妄想を適当に書きます。

親はコーチであって選手では無い

子供に何か新しいことを教えるとき、フォームの改善くらいはできるけれど、代わりに何かをしてあげることはできないとまあそんなことを久々に思った。

横にいてできることは励まし、成功するように祈ることくらいだね。

箸をそこそこ使えるようになってきたので、魚を自分でむしって食べてもらった。

そこそこレベルの箸裁きでは、食べるのにかなり困難があって、手をさしのべないように自分を制するのに苦労した。箸でつまんだつもりでもつまめて無くて落ちることが多々あるからね。

 

しつけは家でできません

「しつけは家でするものです」という言葉に自分に子供が居ない頃は納得していたのだが、いざ親になると納得できなくなった。

 

親にいい顔する子供と外でいい顔する子供のどちらがいい子なんだろうか?

長時間、保育園に預けられている子供は得てして前者になるそうで、ある書籍で保育園の先生がそれを問題視しているのを読んだ。また、有名な進学校に通う子供は得てして家でだらだらしていて、要は家という休息の場所があるから外ではがんばれるというのも見たことがある。

 

子供の将来を考えると、TPOにあった行動ができることが一番で、いつでも良くしつけられた行動でいる必要はないと思う。「しつけは家でするもの」という発想に縛られて家でもちゃんとすることを強要するよりは、適度にTPOをわきまえた行動が必要な機会を作ってあげて、そういう場で教える方が良いのではないかと思った。

 

「物欲を処理する」というすれ違い

離婚してもいいですか?という漫画のワンシーンについてそういうものかと思った。

www.comic-essay.com

今回は「ふふ 100均の 高く見えるよね」「100均だって金だよ」について、この夫婦でとらえ方に差があるのかもしれないという記事。

 

たぶん、人には多かれ少なかれ物欲があり、それをうまく処理してやらなければならないのかもしれない。しかし、収入に見合わない金額のものでそれを処理すると、破産してしまう。幸福度のコストパフォーマンスを考えたとき、100円でそこそこいいものをゲットする方が100万円よりもコストパフォーマンスがよいかもしれない。

人に何かをしてもらったことを思い出すとき、その何かをするのにかかった相手の努力やお金がいかほどだったかはあまり思い出さない。それよりも、思い出す頻度や自分のうれしさが大事な気がする。物欲の処理も同じなのかもしれない。

引用したコミックエッセイでは、妻が買ったと思っているものと、夫が買ったと思っているものがたぶん違うのだと思う。妻は幸福感を100円という安い金額で買った思っているけれど、夫にとっては不必要な箸を買ったとしか見えない。たぶん、その幸福感は「夫の好物は必ず入れる」という形でいつも妻が入れているもので (第1話 参照)、妻がそれを得ようとすると無駄な買い物をしていると言われるからすれ違いが起こるんだろうね。

www.comic-essay.com

 

 

言葉の発達: 3語文の先にあるもの

言葉の発達として、単語、2語文、3語文と増えていくのは知っていたけれど、その後に何が来るかは全く知らず、最近会話ができるようになってきたと思うこの頃。

歌をまねしてうたっているところに寄れば、名詞や動詞はわからなくても、助詞、助動詞をリピートできるようで。それをするには名詞と助詞・助動詞を区別して、助詞・助動詞だけ再生しないといけないと思うので、名詞の羅列文の次に来るのは助詞・助動詞の獲得だったかと思った。

 

大人1枚、子供1枚、切符をください...

老婆が年老いた子供と乗り物に乗るときに、「大人1枚、子供1枚」と言ったというギャグ漫画がある。子供が生まれるとそれまでから生活が一変するけれど、子供が生まれてからもちょっとずつルール変更があって、親になると言うことはその変更に対応し続けるということのような気がする。その変化についていけていないと、このギャグ漫画のようなことを知らずにやってしまうのかもしれない。

 

小学校高学年や中学生にもなった子供のすべてを親が知っていないことを嘆くのはそんなルール変更についていっていないからという印象を受ける。それぐらいの歳になれば、親と過ごさない時間の方が1日のうちで長くなると思うのだが、それでも親が全てを知らなくてはいけないのだろうか。

 

上の子と下の子の年齢差は縮まらないが、できることの差はどんどん縮まっていく。0歳と1歳は雲泥の差だが、10歳と11歳にそれほどの差があるとは思えないし、20歳と21歳の差はもっと小さいものだろう。「お兄ちゃん」「お姉ちゃん」という言葉に押しつぶされる人が居ると聞くが、大きくなった子供にそれを求めるのにどれほどの意味があるのだろうか。

子あり人生と子なし人生

多くの育児ブログは不妊治療を始めたところか、妊娠したところ、子供が生まれたところから始まっている気がする。世間の人は子供がいる人生といない人生のどちらを選ぶのかと我々のように悩むことはなかったのだろうかと思ったりする。

 

大抵は男性が家計の主たる収入源だとおもうので、子供にどこまでの学歴をつけさせるかと、自分の会社や職種の定年から逆算して、そこから男性が子供を作れる上限の年齢が決まると思う。たとえば、60歳定年で、大卒までの学歴を考えると、60 - 22 = 38歳が上限だと思う。当然、自営業の場合や継続雇用がそれなりに保証されている会社なら上限は伸びるが。

女性の場合、不妊治療関連のニュースを見る限り、42歳が上限だが、先天的な障碍のリスクを下げたいなら35歳までだろう。新型出生前診断(NIPT)が認められるのが35歳かららしいので、やはりその辺から大幅にリスクが上がるのではないかと思う。

 

漫画「ブラックジャックによろしく」の新生児科の話ではないが、子供というのは高いリスク要因である。親の思い通りに育つ子供なんていないので、人やものに危害を加え、親が連座して罰せられることや、ニートになることもあるかもしれない。また、大人だけの生活なら許されることも、子供がいる生活で同じことをしたら残念な親になってしまう。生活のペースも当然子供中心になり、夫婦の会話も、家族で使う時間も子供中心、食べるものも子供のことを優先して決めることになる。金銭の面でもすべて公立にやったとしても学費だけで2,000万円くらいかかるという。食費・生活費を加えればもっとだろう。さらに、子供がいると否応がなしに面倒くさい人間関係がやってくることになる。親戚づきあいを始め、地域の活動、PTA活動など子供を人質に取られての様々な面倒くさい人間関係がやってくる。

 

子あり人生を選ぶなら、上限の年齢の前にリスクやその他のデメリットを受け入れるという決断をしなくてはならない。しかも、決めたらすぐ妊娠するわけではないので、決めるのは早い方がいい。

 

結局我々は子供がいる生活を選んだのだが、夫婦として協力をちゃんとできるようになるまでに結婚してそれなりに時間がかかったのと、様々なリスク要因が下がるまでにそれなりに時間がかかったのとで、結婚してから子供を作るという決断をするまでに5年もかかってしまった。