ワーキングファザーのブログ

親父が思いついた個人的な妄想を適当に書きます。

自分に劣等感を感じる理由はいっぱいある

子供が自分よりもできる子どもがいることを時々主張してくる。

「自分より〇〇ちゃんは漢字が読める」とか「〇〇ちゃんは計算が早い」とか「〇〇ちゃんは縄跳びの〇〇ができる」とか「〇〇ちゃんは鉄棒の〇〇ができる」とか。そして、時折「〇〇ちゃんはいいなぁ」とも言う。

 

どの子供も幼いころは自分自身にだけ意識が集中していて、ほかの子供など見えないと思う。自分でほかの子の得意なことに気づくということは、ほかの子供にそれなりに興味を持ち、そして、客観的に自分を見られるようになったということだろう。まずはその子供の成長を喜ぼうと思う。そして、思春期のスタートラインに立ち始めているなとも思う。

 

ほかの子供たちが自然とそれができるようになったと思っているところが親としてはちょっと気になる。こういうのは鴨の泳ぎみたいなものだったりしないんだろうかと思う。傍から見たら何も労せずにその果実を得られているように見えて、実は水面下でめちゃくちゃバタバタしていることはよくあると思う。そして、水面下の努力を得意げに話す人は多分、あまりいない。

 

これを書きながらふと思い出す。「全然勉強してなくて」と定期テストの時に言うやつが必ずいたことを。さすがに自分から言い出すことはなかったが、同級生にテスト勉強をしたか聞かれて、前日に準備をしていたにもかかわらず明確な回答をしなかったことなら自分にもある。同級生はそれを「勉強をしてこなかった」と解釈しただろう。その同級生から見て、勉強をしただけの結果が出ていなかったらかっこ悪すぎだから、自分も勉強をしたとは言えなかった。そう考えると、子供だっていくら練習をめちゃくちゃしてもそんなことは言わないはずだと思い直した。

『僕が一番、おむつをうまく変えられるんだ』

を最近見て、身につまされるものがあった。

子供が生まれてすぐぐらいのころ、仕事をするようなノリで家事・育児してた。

今になったらわかる、あれはメンズトークのノリで家事・育児してんだって。

傍から見ると、家事も育児もメインプレイヤーとしてバリバリこなすそんな夫であり、父であったかもしれないし、そう見えるように文字通り寝る間も惜しんで頑張っていた。

その動機付けが子供がかわいいとか、妻の為にというよりも、言うなれば「僕が一番、子育てをうまくできるんだ」みたいな自己顕示欲を満たす競争的なノリだった。

申し訳ないが、今もそういうノリが完全にないわけではない。子供とトラブっている親を見ると、その競争的なノリが頭をもたげてきてニヤニヤしてしまうこともある。

男性育児アカやパパアカもきっとそうなんだろうなと思う。

 

親には勇気が必要だ...

子供が親が思ってもみなかった選択をしようとするとき、それを追認するのにはかなり勇気がいる。

例えば、男の子が赤いランドセルが欲しいと言ったり、女の子が黒いランドセルが欲しいと言ったりしたとき、二つ返事でOKを出せる親はどのくらいいるんだろう。

これを持つことでほかの子からからかわれたり、いじめられたりしないだろうかと考えずにはいられない。

いくらジェンダーによらない服装などが今時だと知っていても、Not in my backyardみたいに反応してしまう。

世間体にとらわれて壁になるよりも、一緒に壁を見上げられるような親になりたいなぁ。

一人で行かせるのはどこまで?

小学校に入る前は親が園への送迎をするのが当たり前で、基本どこに行くのも親が一緒という感覚はわかる。小学校に入ってから、親ごとの温度差が明らかになり、困る。

小学校の校門まで送り迎えする親もいれば、家の玄関でお別れする親もいる。

公園や友人宅、児童館に一人で行かせる親もいれば、これまで通り一緒についてくる親もいる。

一人で行かせる親にしてみれば、どこにでもついていく親は過保護に見える。

一緒についていく親にしてみれば、ついてこない親は育児放棄に見える。

一人で行かせるのも学校だけから乗り物に乗らないといけないような場所でやる習い事まで幅広い。

毒親にならないようにと一歩引いていると、過保護な側の保護者からは育児放棄しているように見えるようで、なかなかつらいなーと思う。

適応力の違い?

年齢の違う子供たちが同時に入門したとき、高学年の子供たちがより早く上達していくのをよく見る。違いは何だろうと思って見たとき、適応力の差なのかなと思うことがある。

 

子供のころやっていた習い事で、後から入ってきた大人がどんどん自分を追い抜いて高い級を取るのをズルいと思っていた。大人特権で上の級を与えられているんだと思っていた。大人の立場で同じ現象を見ていて、記憶力、集中力、注意力の差を強く感じる。大人なら先生が教えた動きを高い精度でトレースできるし、注意力が高いので、わからない所を事細かに聞くこともできる。つまり、教えられた時に得られるものの量が全く違うのだ。

 

子供同士でも同じようなことが起きているのではないかと予想する。子供にさせている習い事では昇格テストの日でも教えて、練習して、テストするのだが、高学年の子は練習で指摘されたところをサクッと本番で訂正してくるという現象を見る。低学年の子は指摘されたところでも同じ間違いをしたりする。もちろん、上の級になるとそれが高度になるので練習中に修正できなくなってくるのだが、たぶんそれによって一定のところまで高学年の子たちは難なく昇格していくという現象が起きる。

 

まあ、子供に今できないことがあったとしても、適応力が伸びてこればそれは些細な問題となるんだろうな。

正解を求める...

最近、わが子が「正解は何?」みたいなのを求めすぎる気がするのがすごく気になる。

算数など、一意な答えがあるものにそれを求めるのもわかる。でも、それが勉強のすべてだと思っているような気がして最近気になっている。

例えば、「このグループの中で仲間外れはどれ?」という問いは基準を変えることで仲間外れとなるものが変わるものが多々ある。そんな場合でも一意な答えを求めてくることに閉口してしまう。親としてはその答えに至った理由が大事だと思っているのだが、子供としては答えが大事だと思っているようでどう説明していいのか悩む。

...と書きながら、守破離みたいな話なのかと思った。子供としてはこれまで正解通りに意味も分からずなぞる"守"のトレーニングを繰り返してきたので、急に正解かどうか自分で吟味するという"破"を求められても困るということなのかなと思った。

大人から見るとなんでもっと柔軟にできないものなのかとも思うところではあるけれど、剣の束を渡すことはできても、刃を渡すことはできないという話なんだろうな。

私は超長期事業をしてるんだ、目の前のことに一喜一憂せず、根気強くやろう。

目黒の虐待死で食事制限をしたのはこれかなと思った話

最近子供を抱っこしているとちょっとふっくらしているかなと感じることがある。

そういう時は客観的なデータを見ることにする。

https://www.suku-noppo.jp/data/average_weight_girl.html

ちょっと体重を測ってみた感じだと1σ区間に収まっているように思うので、別に太っているわけではないと思う。直近の園で測った値から計算したカウプ指数を見ても上側だが、普通に収まっている。これを見て、もしかして子供はちょっとふっくらするのとシュッとするのを繰り返しながら大きくなるのだろうかと思った次第。

しかし、こういう丁寧な確認作業を省いて、感覚だけで太っている・痩せているを決めたら、太っている側に分類して食事制限をしようとするんだろうなと思った。